《働くことは罪悪か》七月のテーマ 喜働 今週の倫理880号
働き過ぎは罪悪だ、
などといって仕事にいそしんでいる人を軽蔑するかのような風潮が出はじめている。
あぶない、あぶない。ごまかされてはいけない。
働きすぎの「すぎ」をうっかり見のがして、
「働くことは罪悪だ」といった見方におち入りかかっているのではなかろうか。
こうなると「なまけることはよいことだ」から
「遊ぶことこそ美徳である」というようになりかねまい。
働きとは人生にとってたいした意味のないものであるとか、
休んだり、遊んだりすることが本当であり、
働くことは生きるために止むをえないものであり、
いやいやながら、あるいは苦しみながらする労働であるとか、
そのように考えるならば、これらはたいへんなまちがいだ。
働きは純粋な意味では、むしろ楽しいものだ。
うれしく喜ばしいものなのである。
仕事を与えられず、働かずにじっとしていることほど苦しいものはない。
病気になり、働けなくなった時、そのことがよくわかる。
〈ああ、うれしい、今日も働ける。
ああ、よかった、今日も働ける〉そして働いているときが、また楽しい。
これが本来であり、そして純粋なのである。
この喜びの働きに濁りが入ったとき、労働となる。
性にあわぬとか、無理強いをさせられるとか、
他に心配ごとがあったり、不平不満が重なっているとか、というように、
いやいやながら、苦しみつつ働くのが労働である。
本来の働き、純粋な働きなども含めすべて働きを労働と称しているのは、
誤りなのである。
労働省などというのも誤りで、むしろ喜働省とでも変更すべきであり、
労働者などは喜働者と変えなければならぬ。
働きに対して休みと称しているのも、じつはひとつの働きにほかならない。
家にあって家事の助けをするなり、
日曜大工をするなりリクリエーションその他にしてもしっかり計画をたて、
ちゃんと行動するなり、精神的な糧をうるとか、勉強するとか、
そうした一種の働きをするのでないと、かえって身体を害し、
そのときの働きにたいして大きなマイナスとなる。
休みでも大いにはたらくのでないと、頭はボケ、身体はなまってしまう。
これは生理学の教えるとおりだ。
頭もつかえばつかうほどよくなる。
大脳の新しい皮質は、そのようにできている。
心臓外科の先覚者であるアメリカのドベーギー博士は、
毎日の働きが他人の役にたっていると思うとき、心の平安が得られ、
とくべつな休暇旅行を計画して日常生活から脱出しようなどと
悪あがきをする必要は起こらない、といっている。
博士自身の仕事がとても嬉しく楽しいので、
逃げ出したいなどと考えたこともないそうだ。
私たちは博士ほどの境地まで行きつけないとしても、
仕事をたいせつにして、精一杯うち込んで働き、
休みのときにも適当な活動をして、
この限りある人生を有意義に過ごしたいものだ。
それが最大の幸福なのである。
働き過ぎは罪悪だ、
などといって仕事にいそしんでいる人を軽蔑するかのような風潮が出はじめている。
あぶない、あぶない。ごまかされてはいけない。
働きすぎの「すぎ」をうっかり見のがして、
「働くことは罪悪だ」といった見方におち入りかかっているのではなかろうか。
こうなると「なまけることはよいことだ」から
「遊ぶことこそ美徳である」というようになりかねまい。
働きとは人生にとってたいした意味のないものであるとか、
休んだり、遊んだりすることが本当であり、
働くことは生きるために止むをえないものであり、
いやいやながら、あるいは苦しみながらする労働であるとか、
そのように考えるならば、これらはたいへんなまちがいだ。
働きは純粋な意味では、むしろ楽しいものだ。
うれしく喜ばしいものなのである。
仕事を与えられず、働かずにじっとしていることほど苦しいものはない。
病気になり、働けなくなった時、そのことがよくわかる。
〈ああ、うれしい、今日も働ける。
ああ、よかった、今日も働ける〉そして働いているときが、また楽しい。
これが本来であり、そして純粋なのである。
この喜びの働きに濁りが入ったとき、労働となる。
性にあわぬとか、無理強いをさせられるとか、
他に心配ごとがあったり、不平不満が重なっているとか、というように、
いやいやながら、苦しみつつ働くのが労働である。
本来の働き、純粋な働きなども含めすべて働きを労働と称しているのは、
誤りなのである。
労働省などというのも誤りで、むしろ喜働省とでも変更すべきであり、
労働者などは喜働者と変えなければならぬ。
働きに対して休みと称しているのも、じつはひとつの働きにほかならない。
家にあって家事の助けをするなり、
日曜大工をするなりリクリエーションその他にしてもしっかり計画をたて、
ちゃんと行動するなり、精神的な糧をうるとか、勉強するとか、
そうした一種の働きをするのでないと、かえって身体を害し、
そのときの働きにたいして大きなマイナスとなる。
休みでも大いにはたらくのでないと、頭はボケ、身体はなまってしまう。
これは生理学の教えるとおりだ。
頭もつかえばつかうほどよくなる。
大脳の新しい皮質は、そのようにできている。
心臓外科の先覚者であるアメリカのドベーギー博士は、
毎日の働きが他人の役にたっていると思うとき、心の平安が得られ、
とくべつな休暇旅行を計画して日常生活から脱出しようなどと
悪あがきをする必要は起こらない、といっている。
博士自身の仕事がとても嬉しく楽しいので、
逃げ出したいなどと考えたこともないそうだ。
私たちは博士ほどの境地まで行きつけないとしても、
仕事をたいせつにして、精一杯うち込んで働き、
休みのときにも適当な活動をして、
この限りある人生を有意義に過ごしたいものだ。
それが最大の幸福なのである。