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2014年08月06日

《生きることは働くこと》今週の倫理882号

《生きることは働くこと》七月のテーマ 喜働  今週の倫理882号

昨年の冬、Mさんの妻がインフルエンザで数日間寝込んでしまいました。
Mさんは、妻の代わりに、幼稚園と小学校に通う三人の子供たちのため、
すべての家事をこなすことになりました。
早朝に起き出し、朝食と弁当の準備、家に帰って掃除、
夕食の準備と後片付け、寝る前に洗濯、学校からの連絡処理…。

要領を得ないMさんの家事は「悲惨」の一語に尽きたといいます。
しかし、この家事体験から学んだこともありました。
第一に、仕事の工夫についてです。
洗濯一つとっても、シワになりにくい洗い方、乾きやすい干し方、
タンスから取り出しやすい畳み方、効率の良い手順があることを妻から教わり、
職場での自分の仕事ぶりを反省しました。

第二に、働きの意義についてです。
普通、働けば報酬が与えられるものですが、
家事には金銭的な報酬はありません。
しかし、これがなければ、
子供の生活もMさんの職場生活も成り立たなくなります。
報酬を得られないけれども、
尊い働きが世の中にはあることを改めて実感したのです。

回復した妻に、Mさんが感謝と労いの声をかけると、
意外な言葉が返ってきました。それは、
「寝ているだけで何もすることのない方が辛い」というものでした。

倫理法人会の基本テキストである『万人幸福の栞』第十条には、
次のような、いささか強い指摘があります。

職を止めると、間もなく死んでしまう人の多いのは、
仕事がなくな ると同時に、気がぬけてしまうからである。
仕事の第一線から退き、退職をした後に必要なことは、
「キョウヨウ」と「キョウイク」だといわれます。
「教養」「教育」という漢字を当てはめてしまいそうですが、
これは、生涯学ぶ大切さを指したものではなく、
「今日、用」がある、「今日、行く」所があるということを意味するそうです。

〈今日一日、何の用事もなく、行くあてもない〉
…このことが人にとってたまらなく寂しいことであるのなら、
また、どんな些細なことでもやることがあって、
〈誰かの、何かの役に立ちたい〉という思いが人の自然な情だとしたら、
先の語呂合わせも笑いごとでは済まされない重みを持つでしょう。

それは、人間にとって「働く」ということが、
日々の糧を得るためであると同時に、自分の存在の証でもあるからです。
つまり、総じて利他的な営みである働きには、
相手のためである以上に、自分自身の「生」を支えているということです。
これが喜びでないはずがありません。
だから、「働いている時が、ほんとうに生きている時」なのです。

金銭の報酬はなくとも、家族のために働く家事も立派な仕事。
Mさんの妻の生きがいもそこにあるのでしょう。
 一日の働きの第一歩は、朝の起き方にほかなりません。
目覚めると、思わず笑みがこぼれ、ワクワクするような、
そんな生き方を目指したいものです。
posted by いさはやせいかつ   at 19:05 | Comment(0) | 名言・格言
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