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2014年10月29日

《夫が先 経営者が先》十月のテーマ 経営者も家庭人
今週の倫理895号

男性経営者の皆さんは、奥様に呼ばれたら、
「ハイ」と元気な返事をしておられますか。
ご子息に呼ばれた場合も、同様に返答をしているでしょうか。
さらに、空返事ではなく、頼まれたことは即、実行に移していますか。
では、次のような場合はどう対応しているでしょう。
1 わが家の便所にトイレットペーパーの芯だけが置き去りにされていた。
2 玄関の靴がバラバラで、今にも靴が逃げ出しそうな状況に出くわした。
3 洗面所に娘が落とした髪の毛が散乱していた。
4 夕食後の台所に茶碗がそのままになっていた。
5 トイレや風呂が汚れていた。
6 家庭ゴミや資源ゴミが溜まっていた。

 今週おすすめしたいのは、こうした場合、
家庭内において誰がやると決めるのでなく、
気づいた人が、気づいたことをさわやかに的確に処置するという実践です。  

例えば、トイレットペーパーの芯が残っていたら捨てる。
靴は揃える。洗面所の髪の毛はティッシュで拭き取る。食器は洗う。
汚れているところは掃除する。ゴミは出す。
そして、心を曇らせることなく、
実行後は何事もなかったように朗らかに過ごすことです。

「誰が汚したんだ?」とか「なぜ誰もやらない」と、
犯人探しをしたり、責めたり、嫌々行なっては意味がありません。
もちろん、家庭内での約束事として役割を確認し合ったり、
躾として子供を教育することは必要です。
とはいえ、すぐに改善できない場合もあるでしょう。
その時は、自身の倫理実践のチャンスと捉え、果敢に挑み続けたいものです。
 こうした取り組みは、即行の実践、
順序を正しく行なう実践と捉えることができるでしょう。

 順序については次の通りです。
言うまでもなく、男女は同等であり、同権であり、平等な存在です。
相対した同士が合一することで生成発展(うみいだし)はなされます。
ここで大切なのが、順序(先後)を守るということです。
 親である前に、先ず子である「子の倫理」をまもる。
父母の意見が異なる時には父に従う(父が先)。

 親の子にして、後に妻の夫。
故に妻と親と意見の異なるときは、親に従う。
そして、妻の夫にして、子の親である。
(『丸山敏雄全集』八巻「夫の倫理」)

 先が偉くて後が卑しいということはありません。
先後の秩序を守ることが幸福・発展の鍵であることを確認したいものです。
 会社においては経営者が先、従業員が後です。
ということは、挨拶をするのも経営者が先ということになります。
これを先手の挨拶といい、経営者と社員の一体感を生む清き実践です。

 夫婦においては夫が先、妻が後です。
ゆえに、挨拶をするのも夫からであり、
親愛の情に燃えてやさしくする夫の先んじた実践によって、
和やかな家庭は築かれていくのです。

 今週は、男性目線で記しましたが、
女性の方もこれに準じて応用してください。

一般社団法人 倫理研究所法人局
posted by いさはやせいかつ   at 17:29 | Comment(0) | 名言・格言

《責任のがれはやめよ》十月のテーマ 経営者も家庭人
今週の倫理893号

 人間にとって、もっとも大切なのは、
自分が仕事を通じて、健全な社会の建設のために、どれほど貢献しているか、
ということである。
とくに父親は、この道をまっすぐに進む必要がある。
 父親がそうした気持ちで、ひたむきに働くとき、
その状態は妻である母親に影響し、わが子にも反映する。

 父親がフラフラしていると、子どももフラフラするのである。
父親の心意や行動は子どもに反映する。
それは共にいる時間の長短に関係ない。
 親と子は目に見えないところで深く強くつながりあっているのであるから、
子どもがみていないからといって、
子どもに教えるべきしつけと反対のことを父親がしていると、
それを目撃していないはずの子どもが、
父親と同じことをいつのまにか行なっている。

 わが子は見えないところで自分を見ている、わが子のいないところでも、
わが子をしつけることができるという信念ではたらくのがほんとうだ。
 またたとえ、仕事で忙しくわが子と接する時間が少なくても、
たったひとこと、子どもに「こうしなさいよ」と言ってやるだけで、
ピンと子どもに響くのである。
いつも一緒にいて、くどくどと同じことを繰り返して言っているだけがしつけではない。
百の説教より一つの実行。百の注意より一つのすすめ。
こういったことの方が、効果は大きいのだ。
父親はほとんど実行しないでいるくせに、
母親のせいにして妻に子どもを叱らせるようなことは、
もっとも下手な教育である。

 子どもがほんとうに社会に尽くし、
社会のためになる働きをする人間になるかどうか。
他人になるべく迷惑をかけないような、しっかりした人間になるかどうか。
その教育の責任の半分は父親にある。

 いや半分どころではない。
すべての責任は父親にあると自覚するのが、まことの父親の愛情である。
 妻の欠点のすべてを抱き、暖かくわが家をつつむのが夫の愛情だ。
「いっさいの責任は自分にある」と大手を広げて受けて立つ。
 そこに一家の愛和の基礎がある。
こうした愛情をもって、職場においても、いつも子どもが見ているぞとの信念で働く。
それがほんとうの父親なのである。

 夫(父親)としては妻(母親)に責めを負わせないという度量と確信で、
力いっぱいその日を働きぬく。
そこにあふれるような喜びが、しかも高く、清らかな楽しさが湧いてくるのではないか。
そして子どものすること、なすこと、すべてわが責任であるから、
「今日もしっかり勉強し、そして元気いっぱいに遊べ」と、
自分の仕事にうちこんでゆく。
そこに何ともいえぬ生活の歓喜がにじみ出てくるのだ。
 ドンと来い! などという真骨頂は、そうしたところにある。
 世の父親たる者、もっとこの人生を力いっぱい活躍し、
生きぬいていこうではないか。

(単行本『あなたは生命の元を見つけたか』より)

一般社団法人 倫理研究所法人局

posted by いさはやせいかつ   at 17:09 | Comment(0) | 名言・格言

2014年10月20日

《朝一番の波を捉える》九月のテーマ 波に乗る
今週の倫理892号

秋は祭りの季節です。
日本人は昔から、秋の収穫シーズンに「五穀豊穣」「大漁満足」などを祈願し、
田畑や山、海からの幸に感謝を込めた祭事を執り行なってきました。
その地域の形式に則り、踊りや歌に願いを託します。
同じ共同体で暮らす人々が、一年間の感謝を捧げながら、
「ワッショイ、ワッショイ」「やっさ、やっさ」などと掛け声を合わせて、
神輿を担ぎ、町内を練り歩きます。

この神輿の重さは、一度でも担いだ経験のある人ならよくご存知でしょう。
神輿を担ぐのは容易ではありません。
重いものでは一トンを超える神輿もあるようです。
しかし、不思議なもので、声を揃え、息を合わせて担ぐことで、
あれほど重く肩や掌にのしかかっていた負担が、
嘘のように軽くなるものです。
祭りの見せ場ともなれば、異様な盛り上がりの中で、
神輿と担ぎ手が一体となったような感覚を覚え、
見ているものも共感の輪に巻き込んでしまいます。

一体になるのは、神輿と担ぎ手、観客だけではありません。
神輿や山車には、祝詞奏上と共に「御魂入れ」という式が執り行なわれます。
この時、ご祭神と共にご先祖様が招かれます。
つまり、今を生きるわれわれと、あの世の神様、ご先祖様が、
祭りを通して一体となるのです。

まさに祭りは、目に見えない大自然のリズムと一致し、
命の波に乗る如き営みといえましょう。
 「波に乗る」という慣用句には、時の流れに乗る、
時勢にうまく合って進展する、勢いに乗る、調子に乗るなどの意味があります。
皆様は、経営者として、どのような波に乗っているでしょうか。

 通常、経営者として必ず意識をしなければならない時間の区切りとして
「今期」「一年間」といった捉え方があります。
一年間の目標を達成するには、当然、半年ごとの決算が関わってきます。
それをクリアするには一カ月ごとの目標があり、
一カ月の前提には一週間という区切りがあります。
そして、この一週間を作り上げるのは、
今日一日をどのように過ごしたかということによります。
つまり、一年間という長いスパンで波に乗るのは、
突き詰めていけば、今日一日の小さな波に乗ることなのです。

倫理法人会では、一週間に一度の「経営者モーニングセミナー」の会場に、
「朝起きは繁栄の第一歩」という標語を掲げています。
「朝起き」とは、目が覚めたらサッと起きることです。
朝起きるということは、「気づき」であり、
「インスピレーション」「直感」とも結びつきます。
「気づき」とは大自然からのメッセージであり、
これも波の一種として捉えることができるでしょう。

今日という一日は朝から始まります。
その朝のスタートをどのように切るのか。
いつまでも惰眠を貪ったり、二度寝していては、
せっかくのチャンスを取り逃がしてしまいます。
気づきの波に乗って、一日の良い波を作り出し、
人生の波に乗ろうではありませんか。

  一般社団法人 倫理研究所法人局
posted by いさはやせいかつ   at 16:59 | Comment(0) | 名言・格言

2014年10月18日

《地球のリズムを受け止める》九月のテーマ 波に乗る
今週の倫理891号

 九月は防災月間です。
地震などの自然災害に対する備えを改めて見直し、点検する月です。
地震は「プレート」と呼ばれる岩盤のズレにより発生する、といわれています。
地球の表面に存在する異なるプレートがぶつかったり、
すれ違ったり、片方のプレートがもう一方のプレートの下に沈み込むなどして、
強い力が働いて発生するというメカニズムです。

地震が多く発生する地域は、
このプレート同士が接しているところだと考えられています。
日本は、多くのプレート境界に位置するため、
他国に比べて、地震が多く発生してきました。
その度に力と心を合わせ、手に手をとって再建してきた歴史が
日本の歴史でもあります。

そうした経験上から、日本人は古来より自然に畏敬の念を持ち、
災害に対する数多くの教訓や心構え、対処法が生まれ、
伝えられてきました。
多くの自治体で採用され、掲げられている「地震の心得十カ条」も
その一つでしょう。
長年の研究により、このプレートの変動には、
数百年単位で一定の周期がある、といわれています。
地球に生命があるとすれば、プレートの動きに端を発する地震もまた、
生命の鼓動であり、命の営みであり、
地球そのものが持つリズムといえるでしょう。

 私たちは、地球で生活する以上、
このリズムから逃れることはできないものです。
地球という大きな命の営みの中で、
自然災害は必然的に起きてくるものだとすれば、
肯定的に、安らかに受けて、順応するしかありません。

地球の大いなるリズムに反発することなく、受け入れるためにも、
先人が体験によって得た智恵を大切にして、
力を結集して、手立てを取ることが大切でしょう。

その手立てとは、日ごろの備えにほかなりません。
?突発的な事象にもパニックに陥らないような「心の備え」を持つこと。
?生きていく上で必要最小限の物を準備し、
節目にはしっかりと確認する「物の備え」を持つこと。
?防災訓練に積極的に参加したり、
離れ離れになった家族や社員とどこで落ち合うのかを決めておくなどの
「行動の備え」をしておくこと。

これら「三つの備え」があるからといって、
もちろん万全というわけではありませんが、
少なくとも災害の際の行動、また災害の後の対応は、
備えのあるなしで大きく異なるしょう。

 東日本大震災から、すでに三年半が経過しました。
震災直後から、全国で純粋倫理を学ぶ多くの有志が手を差し伸べて、
現在も支援を続けています。
被災地も、徐々にではあるものの、
復興からその先の創生に向けての歩みを進めています。

震災の経験は、時間の経過とともに薄らいでしまう傾向にありますが、
この九月は、災害への備えをもう一度確認する時期としましょう。
そして、日頃から、地球が育む自然の恩恵に感謝し、
畏敬の念をもって環境保全に努め、生かされている命を大切にして、
日々を朗らかに生きたいものです。

  一般社団法人 倫理研究所法人局
posted by いさはやせいかつ   at 21:17 | Comment(0) | 名言・格言